History

戦前編

第1部 旧制第四高等学校(四高)遠足部

 明治27年にできた四高には大学予科と医学部があり、明治29年に大学予科には北辰会、医学部には十全会という学生教師の団体ができている。

 明治31年、北辰会内に磯田正謙氏を部長とする「遠足部」が発足し、医学部生も行動を共にし深谷鉱山などへ出かけていた。

 このことが学校山岳団体の創立として最古である事は記憶すべきである。

第2部 医専の遠足部

 明治34年、四高医学部は金沢医学専門学校となり分離した。

 大正4年、この医専内に「遠足部」が発足。初代部長はドイツ語講師の村田金太郎氏で、委員は職員として若林氏、学生として知原完治(4)、高田聴二(3)、上出成之(2)、池田外喜男(1)の各氏である。当時の活動内容はその名が示す通り近郊遠足が主であった。

 大正4926日に第1回行事として倶利迦羅行を企て、またその中の有志で津幡までの三里のマラソンを行っている。この年は他に倉ヶ岳行、加賀神社〜深谷鉱泉マラソン、鶴来〜辰口鉱泉〜松任〜金沢マラソンを行ったとの記録がある。

 大正6年になると部長が宮田篤郎耳鼻科教授に変わる。この年の夏は遠足部として立山登山を試みている。松原三郎精神科教授(大正10年に部長となる)以下21名が参加し写真師まで同行している。地獄谷について『周囲一里あまり、満地ことごとく黄色或いは鉛色を帯び、中に大小無数の竈穴あり。或は鞳として硫煙を噴き出し、或は沸々轟々として熱湯湧く。人をして覚えず旋律せしむ』とあり、当時ここに診療所が建つと考えた人は1人もいなかった事だろう。午前7時半に雄山に着いた時には『隅々西方に当り、燦然として美麗なる紅輪あらわれ、その中に彷彿として神仏の像を出現する如し、これ立山独特の御来迎なり。その奇観思わず快哉を叫ばしむ』とある。雲に写った自分の影を本当に神仏を思ったのだろうか。また、帰りには松尾坂を下り、『我等はこれを下るに膝関節の脱臼来さんかと憂えたる程なりき。これを登るは如何に難からん。或人曰く、松尾坂を攀じざるものは、倶に天下の峻嶮を語るべからず』とある。

 大正7年には白山登山(鶴来〜白山温泉〜室堂)を行っている。

 登山やマラソンの他にも、兎狩りや筍飯を食う会,能登行脚などの行事も行っていたようである。

 大正12年には外科の田中一次郎教授が部長となる。この頃は薬学の人数が多くなっていた。またこの年宝達山にテントを張った事が記してあるが、部としてはこれが最初ではないかと思われる。

第3部 旅行部時代

 大正13年になると医専遠足部は「旅行部」と改めている。改名の理由は想像の域を出ないが、前年に医専が金沢医科大学に格上げされた事の他、明治末期より起こった学生を中心とする登山熱がその最盛期を迎えようとしており、遠足を超えたもっと幅広いものへと展開しようとしていたからではないだろうか。

 この頃より山登りの精神も、これまでの純日本的な、頭にすげ笠をかぶり、手には金剛杖を持ち、足には脚はん、わらじといったものから、手にはピッケルを持ち、『背には三貫に余るルックザックがあり、足は頑丈な靴で包まれている』といったヨーロッパ的なものに変貌していった。

 この時代は記録に残っているものだけで、穂高屏風岩登攀、劔岳行(伊折〜雷岩〜池ノ谷(早月尾根劔往復)〜三の窓〜真砂沢〜八つ峰上半下半、源次郎) 、白山スキー登山(白山別山釈迦岳清浄ヶ原)、犀滝〜奈良ヶ岳行、医王山行、奥医王山行、口三方行、戸室山行、笈岳行、大門山行、大笠山行、赤堂山行など行っていたようである。

第4部 山岳部へ改名

 昭和910年頃に、今までの旅行部は「山岳部」へと三たび名前を変えているが、内容は前と似たものだったようで恐らく、軍事的な要素の加わったものだったろうと思われる。当時の顧問は熊埜御堂教授であった。

 戦争が進むに連れて、装備難や食料不足となり、山どころではなくなってきた。報国団スキー山岳部というものができているが、学内全部にスキーを普及するくらいのものだったらしい。それも終戦となり軍部が解体するとともに消え去ってしまった。

戦後編

 終戦を迎え戦後の混乱がようやく落ち着きはじめた昭和25年、四高は最後の卒業生を送り出した。このあと医科に進んだ人達はものすごい意気に満ちていた。これら先輩により戦前の旅行部等とは異なる、真の意味での部が誕生したのである。

第1部 スキー山岳部の始まり

 昭和24531日に新制国立大学として金沢大学は発足した。当初運動部の中に山岳部は存在していなかった。そんな中で、高校時代から登山をしていた学生が、歩く事の好きそうなクラスメートを誘って、日曜日毎に歩き回るグループが自然発生的にできた。それは歩く本能を満足させるための会のようなものであった。しばらくして、この有志のグループを運動部に発展させようという意見が出てきた。テント一張りの予算でもなんとか学生自治会から引き出そうというわけである。

 そして、昭和264月「スキー山岳部」が発足した。この部はあくまで学生の自然な盛り上がりから生まれたものであり、これが戦前の遠足部や旅行部と大きく違っている点である。部はこの年の7月下旬、獲得したテントを使って、大日〜劔〜浄土〜五色への6日間の山旅にでかけている。この当時は高山へ行く他、倉が岳、国見山、高尾山、向山大池などのいわゆる遠足があり、部の生い立ちの頃を物語っている。またスキー行も盛んに行われ、医王山、河原山、志賀高原行などがある。

第2部 山の診療

 戦後の部の活動で、特異なものに診療活動がある。この創始者は寺畑喜朔氏で、氏は全くの無から診療をはじめられ、その後地獄谷診療所の開設に至った。現在の「金沢大学医学部 立山診療班」の始まりである。現在は地獄谷診療所はなくなっており、代わりに室堂・雷鳥沢・劔沢の3ヶ所に診療所を構えている。

第3部 山岳部とスキー部

 部誕生当時はスキー山岳部という名前のとおり、その活動はスキーと山登りが一緒になったものであった。スキーと登山が一緒になっている理由には予算を多く獲得しようという下心もあったようだ。しかしスキー山岳部発足後2,3年すると、次第にスキーをやる人はそればかりに熱中するようになり、スキー部分の分離の機運が高まってきた。そして昭和30年、「山岳部」から「スキー部」が独立することとなった。

 この辺の事情について、当時のリーダー鈴木孝雄氏は次のように書いている。『1年生の夏、中村氏等卒業生と志賀→万座ツアーに同行して非常に愉快でしたので、一般にスキーに熱が入りました。当時、宮永,岩田,滝沢らと冬中、方々を歩き回りました。とにかく小生が中心となって、医学部にスキーの機運が持ち上がったものです。2年の時たまたま、西日本の医学生スキー大会で、小生滑降,廻転第1位、中条氏廻転2位等の成果もあり、いよいよスキーブームとなりました。3年の時か、小生の郷里でスキー合宿を行い、スキー人口も部の中でだんだん多くなりました。中条氏はその中で最も技術的に優れておりましたが、他は夏の山行はほとんど参加せず(白山診療班には関係していましたが)、そのような人も多くなり、3年の時にスキー部分離の機運が起こりました。直接私は山岳部の関係がありタッチしませんでしたが、それも良い事と考え、確か4年(昭和30年)の時だったと思いますが、正式に分離しました。といっても当時は掛け持ちの部員がほとんどでしたが、一応klarな形となったものと思います。特にこのような機運が持ち上がったのは、西日本スキー大会が毎年開催されるようになり、山岳部にとって非常に重荷となってきたことも原因だと思っています。』

第4部 山岳部として

 山岳部結成第1回の縦走は昭和308月に9日間の日程で行われている。コースは、みくりが池〜五色〜太郎〜五郎乗越〜三俣蓮華〜槍の肩〜涸沢〜奥穂〜上高地で、山野氏、西田リーダー以下9名が参加している。燃料はラジュースはもたずに枯れ木を集めて使い、地下足袋の人もそうとう混じっていたようである。

 また昭和31年、真砂沢にて初合宿が行われた。鈴木孝雄氏をリーダーに大量29名も参加しており、当時の意気込みが伺われる。715日より2週間もの長期にわたり、アップザイレン、グリセード、八つ峰上半下半、源次郎尾根、本峰西面バットレス等が取り上げられている。岩登りは、この前年、高校時代よりやっていた吉倉氏がチンネを登り、この方面の端を切ったことは注目される。これはその後、木南氏、鎗田氏等が続けている。合宿は真砂沢がふつうで、天候や雪の状態によって劔沢のこともあった。昭和35年には、この合宿中内蔵の助平が取り上げられ、これまでの劔一本から転向を見せている。

 冬山としては、昭和3412月〜1月の白山が最初である。北野リーダー他、細川氏、藤村氏らのメンバーである。

 また、昭和23年に発足した西日本医科学生総合体育大会は、山岳部門(現在は無くなっている)をもっており、昭和31年以降山岳部は毎年誰かが参加していた。昭和38年はその主管をつとめた。

(つづく)

木馬道 第1号(1963年発行)「その歴史を追って」より抜粋。

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